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村松篤設計事務所は、静岡県の西部、浜松市にあります。

お問い合わせはTEL.053-478-0538

〒432-8002 静岡県浜松市中区富塚町1933-1

☆この曲はの一之瀬さんの『海ゆえに』という曲です。 

  白無垢の家!

  昨年の秋、木曽路を歩きました。以前(若かりし頃)一緒に働いた同僚(上司も)との旅です。地元出身で大阪育ちのIさんがプランを練り、ツアコンを引き受けてくれました。・・・が、そのプランは日頃無理を強いている私の膝にとってはなかなかハードなもの。一抹の不安があったものの、足に負担の少ないシューズを購入し、履き方の指導まで受けて臨んだので、何とか乗りきることができました。良かったぁ、足手まといにならなくて・・・。Iさんお奨めの一日一組限定の宿では、周囲に気兼することもなく四方山話に夜も更けていきました。


 馬籠宿は、以前訪れた時よりも観光地化されたように感じましたが、妻籠宿は江戸時代の趣きを残し、しっとりとした風情がありました。安藤広重の浮世絵に描かれた旅人が歩いていても不思議じゃない感じ。景観保全活動に取り組んだ地域の人達の努力の賜物ですね。観光客も戻ってきたようで混み合って、なかには外国人の姿もありました。初秋とはいえどもまだまだ暑い日でしたが、「脇本陣奥谷」に入れると心なしかひんやりして汗がひいていきました。住宅の説明を聴くために囲炉裏を囲んで座わりました。土間の吹き抜けは煙抜きのためで、家人が毎日磨いていたという柱や梁は艶を帯びて趣がありました。格子が嵌った高窓からは柔らかな光が差し込んで、その美しさにしばらくぼーっとしていると心地よい風が吹き抜けていきました。現代人は、住宅設備の進歩によって快適さを手に入れました。そんな設備のない時代、人々は知恵と技術によって心地よさを手に入れていたのでしょう。2階の軒が突き出た出梁造(せがい造り)は、庇の代わりになって旅人を雨や雪から守ります。外側から内側が見えない格子は、目隠しの役割を果たし、旅人のプライバシーを守ります。家は人々の暮らしと地域に根差したものでした。それゆえ街並みが美しいのかもしれません。

 ”たとえ一軒の家であっても、そのまちなみを形作る一端であるとともに、そのまちの社会的資産でもある”は所長の設計理念の一つです。なぜそんなことを気にかけるのか?なぜそんなことが必要なの?って思われる方もいるでしょうね。敷地の状況、周辺環境、日射状況、通風や防風、雨や雪等、四季折々の変化を考える。それは家が地域に密着したものだった先人たちの知恵を取り入れるためです。所長の設計した住宅に住み始めて間もない建て主から、「ずいぶん昔からこの家に住んでいたような気がします。私達にはぴったりの家です」という言葉をいただきました。所長は「設計者として一番嬉しい」と素直に喜んでいました。また、住宅が完成時のオープンハウスに初めて参加する見学者の中には迷う人が多いのです。なぜならば新築住宅に見えないからだそうで、それだけ周囲と馴染んでいるのでしょう。

 先日、役所広司さん主演の、「Shall we dance?」を観ました。今更ながら役所さんはどんな役をやっても、その役柄に自分自身を同化させてしまう凄い役者さんだなあって思いました。セリフがそんなに多い訳ではなかったのに、主人公の心情がすーと伝わってくるのです。阿川さんがある対談番組で彼のことを「白無垢の役者」なんだと話していました。それならばその土地にす〜と馴染んでしまう所長の設計する家は、「白無垢の家」なのかもしれないなんて・・・。


  建物と地盤!

 三上延さんの“ビブリア古書堂の事件手帖〜栞子さんと奇妙な客人たち”を読みました。この本は古本屋を営む主人公が、店に持ち込まれた古書にまつわる謎と秘密を解き明かしていく短編集です。歴史情緒溢れる鎌倉が舞台ということで、思わず手に取り読んでみたのですが、なかなか面白くて続編も買ってしまいました。鎌倉は三方を山に囲まれた景勝地で、名所・史跡も多く、風情豊かな街なので一度は住んでみたいと思ったこともありましたが、そんな機会もなく今に至っています。温和な海洋性気候の相模湾沿いは、日本初の別荘地として発展してきた経緯もあり、瀟洒な住宅街が形成されていますが、私の地元にある海沿いの地域は、残念ながらそのような発展はなく、最近では地震による津波の影響を考える人が増加しているため、ますます住宅地としての人気は低下しています。

 昨年の東日本大震災を受け、地震に強い家を希望する建て主が増えてきました。 建築基準法の範囲内を等級1、建築基準法の1.25倍の強さを等級2、建築基準法の1.5倍の強さが等級3と規定されています。等級1が数百年に一度発生する地震(東京では震度6強から震度7程度)の地震力に対して倒壊、崩壊しない程度。等級2は等級1の1.25倍の性能を有する程度、そして最高ランクの等級3は、耐震性能の1.5倍の性能を有するように定められています。

 日本建築学会のホームページには、『市民のひろば』という項目が設けられていて、建築について一般の人達にも分かりやすい解説がされています。その中の「市民のための耐震工学講座」という箇所には、建物と地盤の説明がされていますので、一部抜粋してみました。

 『地震が起こると地盤が揺れ,その上に建っている建物も揺れます。この時に,建物の「相性」がうっかり地盤と合ってしまうと,建物は大きく揺れて最悪の場合はこわれます。

 お皿の上にプリンをのせて,お皿を左右に動かして揺らしてみます。これを色々な揺れの往復時間,つまり揺れの周期で試してみます。するとある一定の揺れの周期でプリンが最も大きく揺れることが分かります。次に同じことを木綿豆腐でやると,これもまた一定の揺れの周期で最も大きく揺れます。しかしこの両例を比べると,最も大きく揺れる時の揺れの周期は違います。このことから,ものそれぞれで,それを最も大きく揺れさせる揺れの往復時間が,違うことが分かります。言い換えると,ものは最も大きく揺れる揺れの周期をそれぞれ持っているということです。

これを建物に置き換えると,建物を最も大きく揺らす揺れの周期があるということになります。これを建物に固有な揺れの周期ということで「固有周期」と呼ぴます。この固有周期は一般的に,建物が,揺れにくいように「かたく」つくられていると短くなり,揺れやすいように「やわらかく」つくられていると長くなる傾向があります。プリンの例で言うと,プリンという建物が最も大きく揺れるのは「プリンという建物の固有周期」とお皿の揺れる周期つまりは地盤の卓越周期が一致する場合です。図26 関東地震における土蔵と木造の被害率また,「やわらかいプリンという建物の固有周期」は,「かたい木綿豆腐という建物の固有周期」よりも長いということも言えます。

 これまでで,建物の固有周期と地盤の卓越周期がほぼ同じになったときに建物が大きく揺れるということが分かりました。このことは,関東震災の木造と土蔵の被害を調査したときに初めて明らかになりました。関東震災後に山手と下町とで木造と土蔵の被害調査を行ったところ,右図のような結果が出ました。これを見ると明らかなように,木造は下町で多くこわれ土蔵は山手で多くこわれたことが分かります。つまり,やわらかい構造である木造の長い固有周期がやわらかい地盤である下町の卓越周期にあい,かたい構造である土蔵の固有周期がかたい地盤である山手の卓越周期とあったということです。』

 このような事例はあまり報道されないので、一般的には等級だけが一人歩きしているきらいがありますが、等級と共に大切なのは地盤にあった建物を建てるということです。正確な地盤の状況を知るためには地盤調査をしてみなければ分かりません。関東大震災では、同じ赤坂見附という狭い地域でも震度の差があったそうです。報道特集では古地図を取り出して、周辺地域を見比べていました。その結果、揺れが大きかった場所は、溜池だったり、川の進路を変えるために埋め立てを行なっていました。ただ、地盤調査は所有権移転後でないと出来いので、新しく土地を購入する段階では一抹の不安が残ります。もし地盤の状況が悪ければ、地盤改良をしなければなりません。古地図で調べられたり、その土地に古くから住んでいる人に聴ければいいんですけど・・・・。


  情緒が宿る!

 来年、地元のホールでピアニスト辻井伸行さんのコンサートがあります。都市圏まで行かなくても、わざわざ地方都市まで足を運んでくれるなんてありがたいことで、彼の音色を好む友人に誘われて拝聴しようということになりました。クラッシックコンサートのチケットは、比較的取り易いので安請け合いをして先行予約の日に望みました。ところがなかなか電話が繋がらず、電話に向かうこと約1時間半。やっぱり人気があるんだね。ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝してからしばらく経つので、そろそろ落ち着いてきただろうと思っていたのに、甘かった!でもその日粘って良かった。即日完売だったそうです。私自身は彼のピアノをじっくり聴いたことがなかったので、久しぶりにレンタルショップに向かいました。

 村上春樹さんの『雑文集』を読んで、ジャズを聴いてみようとレンタルショップに通ったのは、まだ梅雨入り前でした。その帰り道、表通りから一本裏道に入ろうと右折すると、前方にたくさんの木(角材らしきもの)が刺さっていました。
“一体、何・・・”
と、徐行をしながら近づいていくと、どうやら建前(上棟)のようで、刺さっているように見えたものは柱でした。建前ならば見慣れているはずなんだけど、この違和感は一体何故なんだろうとしげしげ眺めていると、
“そうか、化粧(材)がないからだ。”
と納得。それに幾分柱も細いような気がしました。化粧(材)とは、壁の中に隠れずに、表に見えてくる柱のことで、工事中には傷がつかないように 、養生の紙が巻かれています。その紙には、朱書きで「大安吉日」、「家運隆盛」、「祝上棟」等の言葉が印刷されています。それが建前のありがたさを演出しているのかもしれません。その現場は少々淋しい気がしました。
 マンションの室内のように柱を見せない仕上げをする戸建て住宅が増えているのでしょう。長い不況の時代、予算を重視する建て主の気持ちも分かります。でも脈々と受け継がれてきた日本人の情緒も、壁の中に隠れてしまうような気になるのは私だけでしょうか?

 『背比べ』という唄もあります。
“柱のきずはおととしの五月五日の背くらべ 粽(ちまき)たべたべ兄さんが計ってくれた背のたけ・・♪”子供の成長をほほえましく見つめる親の想いが込められています。
私の実家にも、そんな痕がありました。2階の両親の部屋の柱の一番上は、いつの間にか私の背を追い越した弟のきず痕です。そんな柱を見るたびに子供時代が蘇ってきます。私達はその部屋の前の廊下に大きな紙を広げて、クレヨンで絵を描いていました。自発的に描いたというよりは、常に紙が用意されていた感じです。父は私か弟のどちらかに、絵画の才能があるだろうと期待していたのかもしれません。残念ながらどちらも絵画の才能を開花することはなかったけど・・・。『背比べ』に唄われたような習慣もいづれなくなってしまうのかな?

 京都は大好きな街なので、毎年のように訪ねています。定番の清水寺界隈や鴨川沿いの雰囲気も好きだけど、地元の人の書いた本を片手に史跡巡りをするのも楽しみです。1200年余りの歴史の中に培われた日本の情緒は心地良いものです。昨年の京都の紅葉は、近年稀に見る鮮やかさでした。幸い宿も取れたので、ゆっくりと嵐山を散策しました。天龍寺へ向う参道にある塔頭の中に弘源寺があります。この本堂の柱には、幕末の「禁門の変(蛤御門の変)」で、ここに陣を構えた長州藩士が試し切りをしたという刀傷が残っていました。今でこそ史跡として多くの観光客が訪れる場所になったけど、当時は迷惑な話だったことでしょう。現代ならば器物破損で逮捕されるところだろうけど、血気盛んな時代ゆえに許容されていたのかな。その刀傷は生々しくて、ペリー率いる黒船が浦和に姿を現してから始まった幕末の動乱の事実、それがわずか150年程前だったという事に改めて気付かされ、ず〜と柱を見ていました。柱には日本人の情緒を揺り動かす何かがあるのかもしれません。
 

  真夏の夜の夢!

 なでしこジャパンのキャプテン、澤選手が表彰台の上に立つメンバーに駆け寄り、優勝カップを高らかに頭上に持ち上げると、後方から紙吹雪(実際には紙ではないようだけど)が噴き出した。黄金色の紙吹雪に包まれながら、満面の笑顔を浮かべている選手達。まるで真夏の夜の夢を見ているかのようだった。

朝のTV番組でドイツ戦の報道を聞いたのが、この数日前。既に試合は終わっている時刻だったので、勝敗はついているだろうと、何げな〜く聞いていると、延長戦に入っているという。『え〜、ドイツ相手に延長戦なの?』チャンネルを変えても中継はなかった。もしかしたらBSならば可能性があるかもしれないと、急いでリビングに降りてTVをつけた。幸運にもその日、ドイツに勝利する瞬間を見ることが出来た。スウェーデン戦は後半から見た。すばやい動きとパスワークで、相手の体格を逆手に取ったような試合運びがとても頼もしかった。

 いよいよ決勝戦という日、私は開始時刻前に自然と目が覚めた。相手はFIFAランク1位の王者アメリカ。試合毎に力を付け、昇り調子の彼女達だから、“もしかしたら・・・”と、気持ちが高ぶっていたのかもしれない。ホイッスルが鳴るやいなや、怒涛の攻撃を仕掛けてくるアメリカはやっぱり強かった。そのパワー、スピード、技術力は群を抜いていた。だけど、彼女達が繰り出すシュートはなかなかゴールを割ることがない。この試合、ツキは日本にある。勝利の女神は日本チームに微笑んでいるような気がした。前半は0ー0となんとか凌(しの)いだけど、後半に1点先制された。いつもなら気が抜けてしまうところだけど、私の集中力も途絶えなかった。“何が何でも勝って欲しい”、観戦していた日本人みんながそんな気持ちだったのではないかな。そんな願いが届いたように宮間の巧みなシュートが決まった。先制された延長戦も、後半でアメリカの選手が守りに入りラインを下げたので、これはチャンス、攻め易くなると思った。やがてコーナーキックを掴んだ日本。宮間の正確なキックを澤が絶妙のタイミングで受けて同点シュート。PK戦をも制する。歓喜の声をあげた私に驚いた猫は、私の膝に2本の爪痕を残した。

 ワールドカップ優勝に沸き立つ日本列島。日本中が歓喜の渦の中に包まれているというか、包まれていたいという気分だったのだろう。ついつい私も、なでしこジャパンの選手達が出演している番組にチャンネルを切り替えた。戸惑いがちだった質疑応答にも、流暢に答えるようになってきた選手達。そんな雛壇に座っている選手の中に宮間選手の姿が見当たらない。活躍した選手の一人だから、当然オファーがあって然るべきなのに・・・。ネットで調べたら、一足早く所属チームの本拠地に戻っていた。私同様、彼女に注目し同行取材していたTV局が、地元の記者会見の様子を報道していた。
「このフィーバーはそんなに長く続かない。ただのフィーバーに終わらせないために、私のすることはTVに出ることではなく、ピッチで表現し続けること。地道にサッカーを続けること」、「浮かれることなく、今週末からは湯郷ベルの選手として役割を果たしていきたい」と地に足の着いたコメントをしていた。そういえばアメリカに勝利した時も、「対ドイツ戦、米国戦では90分で勝負をつけられなかった、今後の大きな課題」と冷静だった。彼女は常に将来を見つめて挑戦していくのだろう。

 先日、建築家・安藤忠雄さんの講演を聴きに行った。講演の中で、「1980年以降に生まれた子供はダメだ」という話をしていた。高度成長で豊かになった環境の中で、過保護に育てられたからだと・・・。高校卒業後、設計事務所に弟子入りすることもなく、独学で建築の勉強して、世界的な建築家の地位を築いた安藤さんには、苦労知らずの若者がもどかしいのだろう。確かに、そういう人達も多い。だけどなでしこ選手の大部分は、仕事と選手生活を両立させた環境にいる。宮間さんも今でこそプロ契約をしているが、温泉旅館の風呂掃除のアルバイトをしながらサッカーを続けていたそうだ。決して恵まれているとはいえない環境で、高い志しを胸に抱く彼女達は1980年以降に生まれている。私は、『そんなことないですよー』って、心の中で反論した。

  ある外国人の日本観

 特の経つのは早いもの。上海を訪ねたのがほんの数年前だと思っていたら、もう10年という歳月が流れていた。 早いなあ〜。その間に上海は随分変わったことだろう。初めて降りたった上海虹橋国際空港で感じた土地特有の匂いや、中心部に向かう高速道路で荒っぽい運転をする車の群れ、高度成長期の好景気に次々と建てられる高層建築の印象ははっきり覚えているけど、空港自体の記憶はない。だけど帰国する際に利用した上海浦東国際空港の印象は、今でも鮮明に覚えている。光りの取り込みが巧みで、洗練された美しい空間。それは公共建築にありがちな無機質感がなく、どこか有機的でさえあった。

 先日、新聞に建築家の特集記事があった。前述の空港を設計したフランスの建築家 ポール・アンドリューさんの記事。(新聞がある特定の建築家の記事を大きく取り上げるのは珍しい)彼はパリのシャルル・ドゴール空港をはじめ世界各国の大空港建設の設計に携わっている。日本の仕事も多く、訪日は優に100回を超えているという。意外にもアンドリューさんは若い頃から日本の近代建築に強い興味を持っていたようだ。独自文化を守り続けてきた日本人。特にその『空間への優れた感性』に驚くという。
 「国立土木学校で建築を学びだした1960年代、超近代的な建築の世界で台頭してきた建築家の中に、多くの日本人がいた。なかでも、ケンゾー・タンゲ(丹下健三)は、新たな神が現れたかのようだった」 「日本の建築家らが作品で示したものには、ひとつの共通点があった。西欧近代の潮流を完全に理解して取り込みながらも、日本独特の個性を失わず、自分を保ち続けている点だ。すべてを受け入れながら、自分自身でいられる。それは命がけでなければできない。自分を乗り越えた自分になるということだ」

 彼はドゴール空港建設に関わり始めた60年代後半、丹下さんが設計した代々木の東京オリンピック屋内総合競技場や東京カテドラル聖マリア大聖堂を見学するため初来日する。それらの建物の全体の構成、風景の中でのフォルムは、彼に何か日本的な印象を与える。
 「丹下は日本的になろうと努めたわけではないと思う。発想を見ても、建材の使い方も、(建物の)機能面も、近代的だ。だが、ひらけた空間に対する優れた、深い感性、どのように空間をつくり出すか。そこが日本的だ。ひらけた空間が、建物の核、すなわち『魂』となる。間(ま)こそが、『魂』なのだ。そこが独特なものになっている」 「伝統的な手法をまねてみるのは面白いかもしれない。ファッションとしてはいい。でも、それはおためごかしだ。むしろ内部から、より深い、本物の伝統がにじみ出るのをじっと待つようなところが日本の優れた近代建築にはある」

 所長の美術探訪に付き合って四国を旅した折、丹下さんが設計した香川県庁(2000年に新庁舎が建てられたので、今は東館と呼ばれている)を見学した。この建物はDOCOMOMO(後世に残したい近代建築の記録と保存を目的とする国際組織)20選に選ばれている。1階部分のピロティーやコンクリートの水平面はコルビュジェの影響を受けているのかなって思ったけど、庁舎内の空間は躍動的で、アンドリューさんのいう日本建築独特の広がりのある空間が展開されていた。

 彼の日本(日本人)に対する造詣の深さは、建築にとどまらない。『陰影礼賛(いんえいらいさん)』の著者である谷崎潤一郎や、『日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による彼の叙述の卓越さに対して』との評価でノーベル文学賞を受賞した川端康成は、好きな作家だそうだ。 そして日本の風景でとても印象に残っているのは、高野山。 
 「なぜか、とよく聞かれる。多分、あの森だ。まっすぐな、あくまでまっすぐな、杉の木立。植えて、枝を切り落として・・・まっすぐになるように人の手が加えられた森だ。どこか、日本の建築に通じる。その上昇感、深み、まっすぐなところが、精神の世界につながる。」

 私も知っている、まっすぐな、どこまでもまっすぐな杉木立を・・・。何処だったのだろう、忘れてしまったけど、一人歩きながら、何か神聖で崇高な想いが湧きあがった。アンドリューさんは日本人の精神性までもよく理解しているのだろう。その感性は、とても日本的だ。私が上海浦東国際空港の空間に共感できたのも、それ故なのかもしれない。余談になるけど、先月、旧友達と集まる機会があった。話の流れで、私がピアノを弾くことになったけど、どうも話に夢中で聴いているようには思えなかった。思い出は共有できたが、音楽は共有できなかったなあ。
 

 灰とダイヤモンド

 その揺れを感じたのは、書斎でパソコンに向かっている時でした。鈍い揺れが暫らく続き、船酔いに似た感覚(少〜し気分が悪い)を我慢していると、階下で携帯電話が鳴りだしました。
「凄い揺れだったけど、大丈夫?」
心配そうな所長の声。打合せに出向いた社屋が、結構揺れたのだそうです。確かその辺りの地盤は良い筈なのに・・・。TVをつけると各局全て地震特番に切り替わっていました。宮城県で震度7、マグニチュード8.4(後に9.0に訂正)。途切れることのない地震速報、ヘルメットを被った安藤キャスターが、興奮気味に地震の情報を伝えていました。東北でなんか途方もなく大変なことが起こっているのではという胸騒ぎがしました。

 一夜明けて、TVに映し出された映像に言葉を失い、ただ呆然とするだけでした。木々を薙(な)ぎ倒した黒い波が、コンテナや車、家までも巻き込みながら、凄い勢いで街に向かって襲い掛かっています。津波に呑みこまれた街は、まさに壊滅状態。点在する建物が、わずかに街の名残を遺しているだけの一面瓦礫の山でした。それが海岸沿いの街々、広範囲に亘っています。東北地方が蒙った甚大な被害は、予想もつかないものでした。そして福島原発の白煙、爆発の事象。人心への配慮なのかもしれないけど、楽観的な意見を述べる専門家よりも、最初の会見に臨んだ原子力安全・保全院職員の切迫した表情の方が、事の重大性を物語っているように感じました。繰り返し流される街の映像、頻繁に起こる余震、そして原発事故。最悪のシナリオが脳裏をよぎりました。

 阪神淡路大震災から16年が経過した今年の1月17日、“木の家”耐震改修の大勉強会が神戸で開催されました。全体会では前・京都大学総長の尾池和夫氏による基調講演(活動期に入った地震列島)もあり、この勉強会に出席した所長は、近いうちに地震が起こる可能性が高まっているらしいと危惧していました。1976年に、「いつ起こってもおかしくない」と東海地震が提唱され35年が経ちます。この地域には幸いにも危惧されるような地震は起こっていませんが、その間に阪神淡路大震災、中越沖地震が起こり、大きな傷跡を残しています。それら教訓を生かして日本人は地震対策を重ねてきました。建築基準も世界で一番厳しいのではないかとさえ思います。それなのに今回の大地震は、それらを嘲笑うかのように完膚無きまで破壊し続けたのです。穏やかな海(自然)が、ひとたび牙を剥いて襲い掛かってきたら、為す術もなく立ち尽くすしかないのでしょうか。心が萎えそうでした。

 それでも自衛隊、消防団、警察官が淡々と仕事をこなしている姿に、被災を受けた人達が整然と行動する姿に、交通が麻痺する中、長い列に並んで通勤する人達の姿に、心が動きました。その姿は、日本人が本来持っている生真面目さ、勤勉さです。外国のメディアも、驚きと賞賛の声を上げたように、私も胸を打たれました。自分に出来ることはしなければ・・・。無駄な電力を使わないように電化製品のコンセントを抜き、照明は必要最低限だけに絞りました。久しぶりに雑巾がけをしたリビングのフローリング(床材)は、膝への負担が少ない軟らかい材。自然豊かな三陸地方で育まれた赤松です。東北地方の1日でも早い復興を願います。
 
先日の朝刊に、ポーランドが生んだ世界的映画監督アンジェイ・ワイダーさんの寄稿が載っていました。

『ポーランドのテレビに映し出される大地震と津波の恐るべき映像。美しい国に途方もない災いが降りかかっています。それを見て、問わずにはいられません。
「大自然が与えるこのような残酷非道に対し、人はどう応えたらいいのか」
私はこう答えるのみです。
「こうした経験を積み重ねて、日本人は強くなった。理解を超えた自然の力は、民族の運命であり、民族の生活の一部だという事実を、何世紀にもわたり日本人は受け入れてきた。今度のような悲劇や苦難を乗り越えて日本民族は生き続け、国を再建していくことでしよう」』

彼の代表作に「灰とダイヤモンド」があります。未曾有の大災害と対峙した私達にとって灰の中のダイヤモンドは、人々の間に自然と芽生えた復興に向けての想いや絆なのかもしれません。 

  上質な空間!

 随分前になるけれど、お笑いタレントが『狂言』に挑戦するという番組がありました。野村万之丞さん指導のもと、『狂言』を習得していく過程を滑稽に、そして感動的に描いていました。だけど、私は番組の企画(意図)とはかけ離れた部分に感動してしまったのです。それは画面に映しだされた能楽堂の美しさ。無節の檜(ひのき)を使って造られた舞台は、とても美しく光輝いていました。さすが伝統芸能、TVを見ながらしばらくボーとしていました。やっぱり本物の質感は素晴らしい。どんな材料が使われたのか興味が湧いたのでネットで調べてみましたが、検索の仕方が悪かったのか、能楽堂の建設についての情報は得られませんでした。

 最近になって、『能を支える人々―  “かくして能楽堂は建設された”』というサイトを見つけました。それによると、

 「高い目標の実現に向けて、まずこだわったのは素材である。演者が舞う本舞台、橋掛かりの床には極上の尾州檜樹齢400年 無節で板目、色合いの揃ったものを厳選し、さらにそのなかから選りすぐった。(中略)わずか数ミリに満たないヤニ壷〔ヤニのたまった筋のような箇所〕でもあれば、すぐにハネて、本当に確かな品質のものばかりを選び出しました。ここが一番苦労した作業だったとすらいえますね」

あ〜、やっぱり素材が違うのね。尾州檜(別名 木曽檜)は、長野県南西部、木曾川上流の渓谷 木曾谷に生育する樹齢300年以上の天然の檜です。日本三大美林として、秋田の杉、青森のヒバとともに賞讃されてきました。冬の寒さの厳しい木曽谷では木の成長が遅く、長い歳月をかけて育つため、年輪の幅が細かく、木目がより緻密で、美しく滑らかな木肌を持っています。また材質に粘りがあり、加工しやすく、狂いがきわめて少ないという世界的な優秀材です。世界最古の木造建築物である法隆寺や20年ごとに社殿を造りかえる伊勢神宮にも使われています。
 
 そんな能楽堂と比較するのはおこがましいけど、奏庵(自宅)を建てる時にも、一応、素材にはこだわったのです。所長はその質感や強度、耐久性、乾燥方法等、様々な要素を考慮していたみたいだけど、私のこだわりは専(もっぱ)ら質感でした。能楽堂のように美しく洗練された、上質な空間への憧れ。だけど現実は厳しい。私の希望する無節(節がないもの)の無垢材は、一等材や特一等材(節があるもの)に比べると、数倍〜十数倍と高価でした。たとえば、4寸角(12cm角)の杉特一材がおよそ3000円だとすると、一面上小(節が少ないもの)で約2倍、四面無節で8〜10倍になります。「尾州檜なんて贅沢は言わないから、せめて無節の無垢材を・・」という私の希望は、結構贅沢なものだったのです。予算には限りがあるので2階は、特一材や合板を多用しました。だから階段を上がると、とたんにカジュアルな雰囲気に包まれます。まあ、これも一興かな。

 1階にあるリビングのソファーに座って、歳月とともに艶やかに深みを増す木肌を眺めていると、妙に落ち着きます。嬉しいことに友人や知人、見学者の間でも評判が良いのです。先日、遊びに来た友人も、「もっちゃんの家は落ち着く。癒されるわぁ〜」と、心地良さそうでした。旧姓に因(ちな)んだ彼女の呼び方が、“はんなり”と耳に優しいのは、この空間が一役を担っているのかもしれません。彼女のおかげで、再びピアノを弾き始めました。二胡を習い始めた彼女と、「いつかアンサンブルしよう」と約束したからです。腱鞘炎を患って、ず〜とピアノから遠ざかっていたので、容易ではありませんでした。右手と左手がスムーズに動かなくて、楽譜を見ながら“本当にこんな曲弾けたのかな”って疑問すら湧いてくる始末。それでも“継続は力”でした。その日、念願かなって二胡とピアノでアンサンブルをしました。ちょっと感動です!奏庵(自邸)の大屋根は、音響が良いので実力以上に上手く聴こえます。“音楽を楽しみながら暮らしたい”という私の要望を優先して構築してくれたこの空間は、私にとってはとても上質な空間です。改めて所長に感謝!

  父のアトリエ!

 いつだったのかなあ、独立した個室を与えられたのは・・・。随分前のことなので、正確な時期は忘れてしまった。特に欲した記憶もないけど、たぶん弟とシェアしていた子供部屋の真ん中をカーテンで仕切った頃から、両親はその必要性を感じていたのかもしれない。
私に与えられたのは、父のアトリエだった。とは言っても父は画家ではなかった。休日になるとキャンバスに向かう、そんな父の趣味の部屋を私達はアトリエと呼んだ。

 数十年経った今でも思い出す父の絵の記憶がある。それは幼稚園で催されたお遊戯会の記憶。初めてのお遊戯会の時、頭に被る動物のお面は、それぞれの家庭で用意することになっていた。私は父に描いてもらった動物のお面を持っていった。いざ被ろうとして周りの園児達の様子を見て、急に恥ずかしくなった。自分が周囲からちょっと浮いているような気がしたからだ。父の動物の絵は、細部までよく描き込まれ、とてもリアルで際立っていた。その力量の違いは誰の目にも明らかだったと思う。

 もしかしたら父は画家を志したことがあったのかもしれない。だけど画家として成功するのは、一握りの人間。ただ上手いだけでは通用しない。もちろん才能は必要だけど、時代背景や運もある。あのゴッホだって生存中には正当な評価はされていない。父は美大ではなく、教育学部を選んだ時点で、趣味で絵を描いていこうと決めたのだろう。そんな父にとっては大切な部屋。それを私に明け渡さなければならなかった父の無念を思うと申し訳なくなる。

 その部屋は2階、東側の角部屋だった。天井も壁も板張りで、床はフローリング。洒落た照明が下がり、造り付けの飾り棚にはビーナスの塑像が置かれていた。南と東側にある大きな窓からは陽光が降りそそぎ、風通しも良い快適な部屋だった。だけど冬が近づくと、その環境は一変した。“寒〜い”なんてもんじゃない。まるで冷凍庫。私は何枚も重ね着して、毛糸の帽子を被った。部屋の中に居ても手が悴(かじか)むので、手袋までして炬燵に潜りこんでいた。「寒がりだねぇ〜」と言わんばかりの、冷ややかな視線を送ってくる家族。今思うと他の部屋は塗り壁なのでまだ暖かかった筈だ。一番寒がりな私が、何故、一番寒い部屋に住んでいたのだろう。

 木の模様をプリントしたベニアの内壁と、波型トタン張りの外壁の間には、たぶん断熱材の存在はなかった。今ならば「屋根裏と壁に断熱材を入れて、窓をペアガラスにして、木製サッシに変えて欲しい」と主張するところだけど、当時はそんな知恵もなかった。布団に潜っても寒くて眠れない私を憐れんで、祖父が電気毛布を買ってくれた。“暖か〜い”、電気毛布のありがたかった事。祖父の優しさが胸にしみた。そういえば奏庵に住むようになって毛布を出したことがない。乾燥を嫌って、就寝時には暖房を切るけど、明け方の室温は20℃前後だ。今年は例年に比べて少々寒い。このところの寒波で温暖なこの地域でも先日、雪が積もった。外気温はマイナス1℃だったが、それでも朝の室温は16℃。まだ毛布は出していない。住宅の進化を実感する。暖かい部屋は何よりだ。
 

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