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静岡県浜松市の設計事務所 村松篤設計事務所

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〒432-8002 静岡県浜松市中区富塚町1933-1

☆この曲はの一ノ瀬さんの『Silent Interval 2』という曲です。 

   大徳寺・孤蓬庵!

 昨年の秋、所長がある建築雑誌を持ってきて、「良いでしょう」という。開いたページの中には、上半分の障子が下げられ、下部のみ開口した庭の写真があった。静寂の中に何かを語りかけてくるような、とても素敵な写真。それは大徳寺・孤蓬庵にある茶室からの風景だった。TVのCMさながらに、「そうだ京都に行こう」と心がはやり、12月の初旬に京都を訪ねた。その日の京都はものすごく寒くて、まずはデパートに飛び込んでマフラーを買った。そして地下鉄・バスと乗り継いでなんとか辿り着いた大徳寺は、洛北屈指の大寺院というだけあって広い、広い。なかなか孤蓬庵が見つからない。持参したガイドブックに孤蓬庵の文字は見あたらなかったが、現地に行けばなんとかなるだろうと思っていた。だけど現地で探し廻ってもちっとも見つからない。寒さも一段と厳しさを増し、みぞれまで降りだした。結局、大仙院と高桐院を見学し、大徳寺を後にしたのだ。(悔しい〜)その後なにげなく旅行会社のパンフレットを眺めていた所長が、孤蓬庵特別拝観の文字を見つけ叫んだ。それによると孤蓬庵は大徳寺の境内からひとつ道を挟んだ、しかも高校の西側にあった。これでは分からないはずだ。

 念願叶って今年の秋、大徳寺・孤蓬庵を訪ねることが出来た。孤蓬庵は古田織部の茶道精神を継承した小堀遠州が、1612年に自らの菩提寺として建立した。徳川幕府の作事(さくじ)奉行でもあった彼の晩年の仕事で、もっとも円熟した作風と評されている。最初に通された本堂南側の方丈の庭は、船岡山(現在は周囲が建て込んでいるので見られない)を船に見たて、全体に敷かれた赤土を庭の水に、四角に刈り込まれた段違いの二重生垣を水平線と打ち寄せる波にたとえている。当時の風景を思いながら移動していくと、誰かが「ここだよ、ここ」と言う。何が「ここ」なんだと頭を傾けながらその場所に座ると・・・。そこはお目当ての茶室、『忘筌』だった。特別拝観に来るような人達はやっぱり違う。だけど私が想像していた茶室とは異なり、床の間付き12畳の書院座敷だった。彼はつねづね草庵の形で確立された利休の茶室を、書院の形で試みたいと考えていたようで、この孤篷庵の『忘筌』においてそれを成し遂げたという。(ちなみに『忘筌』という名は悟りの境地をあらわす。)切り取られた景色の中に手水鉢や飛石、灯籠などを配した『忘筌』からの眺めは、どんな豪華な庭と比べても決してひけをとらない奥深さだった。

 月刊誌「カーサ ブルータス」のなかで、ボッテガ・ヴェネタのクリエイティブディレクターであるトーマス・マイヤー氏が、孤蓬庵の素晴らしさに感嘆の声を上げている。「庭石の配置 それに対する砂利の敷き方、樹木との調和、室内に目を向ければ、畳に縁のラインと障子や襖のラインの絶妙な収まり具合。それがすべて完璧なのです。(中略)実にシンプルなディテールが存在するだけなのに、全体としてリッチでエレガントな空間に見える。」また、「建築に限らずあらゆる芸術に共通することですが、職人の技というのは、これ見よがしに作品の中に目立ってはいけないと思うのです。孤蓬庵の建築はディテールに非常に高度な職人技が込められているはずですが、それが一見して分かるものではない。(中略)クラフトというのは努力の跡や何かを為そうという意識が見えてはいけない。それでいて完結された美の中に人の手の温かみをそこはかとなく感じさせ、心地よくさせるものでありたい。」と、孤蓬庵は彼が求めているもの、到達するゴールであると語っている。彼も孤蓬庵で悟りの境地に誘(いざな)われたのだろうか。

 ボッテガ・ヴェネタについてご存じない方のためにちょっと説明すると、ボッテガ・ヴェネタはイタリア・ヴェネト地方の熟練した革職人の伝統に深く根ざしている高級皮製品ブランド。製作は手作業で、籠網に着想を得たなめし革の革紐を用いた編みこみバッグが有名である。クリエイティブ・ディレクターにトーマス・マイヤー氏が就任してからは、一気に知名度が上がったそうだ。建築と皮製品、分野こそ違えど、“もの造り”に対する姿勢には、共通するものがあるんだなぁ。それにしても日本文化の良さを理解する感性って、日本人のDNA故なのかと思っていたが、どうもそうではないらしい。装飾を排した簡素な建築美はモダニズム建築の造形美にも通じるとして桂離宮を絶賛したブルーノ・タウトもドイツ人の建築家だった。優れたデザインは古今東西を問わないのだろう。桂離宮といえば、参観希望の葉書を何回も送っているんだけど、いつも抽選にもれてしまう。いつになったら見学できるのだろう。

  有機的建築!

 夏の終わりを告げるかのように、ツクツクボウシが鳴き続けている。このところ季節もようやく秋の気配を漂わせ、日が暮れると虫の音がする。過ごし易くはなってきたが、今年は台風が続けざまにやってくる。通り過ぎていった台風の影響でたっぷりと湿気を帯びた空気がまとわりつく。机に座りパソコンに向かうと、心地の良い風が通り抜けていった。『う〜ん、気持ちが良い』。窓の方に視線を移すと、お隣の庭の緑の木々が揺れている。ポツポツという音とともに雨が降り始めた。あと数ヶ月で紅葉が色付くことだろう。学生の頃、“日本は四季の変化に富んだ美しい国である。”と教えられたが、当時は『其れが何?』って感じだった。しかし最近では時折その素晴らしさを実感する。年をとったせいなのかとも思ったが、これは奏庵に住んでいるからに違いない。建物は自然と融合すべきものであるという、この日本に生まれたことを幸運に思う。

 それに対し欧米の建物は過酷な自然から身を守るため、石や煉瓦で頑丈に壁を築いて、外部と内部とを遮断する。欧米において建物は自然と対峙するものなのだ。しかし不思議なことに、アメリカに日本的な思想を持った建築家がいた。彼の名はフランク・ロイド・ライト。アメリカが誇る20世紀を代表する建築家だ。彼は世界の近代建築が、機能性、合理性の追求を目標としていた時に、、『有機的建築』の理想を追求し続けた。この『有機的建築』というのは、“より豊かな人間性の保証に寄与する建築”というもの。ライト自身の言葉を引用すると、“外部からあてがわれた卓越したかたちのひとつとしての建築そのものの状態と外観内部を調和して創り出す建築をいう。”とある。だけどちょっと分かりづらいかな。そこでもう少し分かり易い説明はないかといろいろと調べてみた。あるHPの中に、“『有機的建築』とは、自然をお手本とし、自然と共存する建築であり、さらに内装(家具や照明)に至るまですべて、建物全体にとって必要不可欠となるよう設計された建築と言えるのではないでしょうか。”とあった。う〜ん、まさにこの通りだ。

 彼は800以上の計画案を遺し、400棟もの建物を実現させた。代表作に カウフマン邸がある。この建物は清流が滝となって落下するところに建っているので、『落水荘』とも呼ばれている。キャンチレバー(片持ち梁)の床が岩棚から滝の上へ突き出し、清流を抱きながら岩盤に根を張るように建てられたその姿は、周囲の景観と融和している。ライト研究で有名な谷川正巳さんは、“。その姿はきわめてダイナミックで、しかも、きわめてロマンチックなたたずまいなのです。そして、渓谷の美しい自然と『落水荘』は一体になって互いに融和し、素晴らしい景観を醸し出しています。『落水荘』はアメリカ合衆国のみならず、世界でもっともロマンチックな住宅建築として、高い評価を受けているのです。”と述べている。

 アメリカから遠く離れたこの日本にライトの作品がある。それもアメリカ以外ではお隣のカナダとこの日本だけだという。彼は旧帝国ホテルの設計を依頼され来日した。いろんな事情があって原設計を完成させたものの、大正11年に帰国してしまった。その後、彼の教えを受けた南信と遠藤新によって帝国ホテルは完成するが、その時製図担当として来日したアントニン・レイモンドはそのまま日本で独立、建築事務所を主宰する。ライトの影響を受けた建築家は日本に多い。前川國男さんや吉村順三さんなどもレーモンド事務所で学んだ。彼の思想は今なお、次の世代へと引き継がれている。ちなみに 遠藤新さんの息子は遠藤楽さん。ちょっとしたご縁があって結婚式にも出席してくれた。『思い出のサンフランシスコ』を歌った楽さんは、ちょっとおしゃれでモダンな人だった。なんだかとても懐かしい。今年、フランク・ロイド・ライト来日100周年記念のコンペがあった。テーマは『巨匠フランクロイドライトが21世紀の日本の住宅を設計するとしたら・・・』というもの。事務所一丸となって取り組んでだ結果、なんと入選。なんか深い縁(えにし)を感じる。

  住宅への情熱!

 先日、『趣楽の家』のオープンハウスが行われた。建て主のIさんご家族も私達と一緒になって、見学者の質問等に対応してくれた。やはり経験者の言葉は重みがある。早々やって来たMさんが、「玄関がギャラリーみたいですね。」と言うと、「私はそういう雰囲気にしたかったんです。」とまさにIさんの想い描いた通りの感想にとても嬉しそうだった。建築中の建て主の皆さんもそれぞれにいろんな感想を持ったみたいだ。担当スタッフの話では、これから建築が始まる自分達の家と比べて、空間量や質感の違いを気にされたり、材料や仕上げについての具体的な意見があったと言う。う〜ん、なかなか専門的でよく勉強されている。今回の趣楽の家はこれまでの所長の作品と比べるとモダンな感じがするんだけど、「やっぱり村松さんの匂い(雰囲気)がする。」という言葉を耳にすると、長く所長の建築を見続けてきてくれた年輪のようなものを感じた。新規の参加者も興味深く見学していたが、不思議と皆さん奏庵(自邸)の事を良く知っていた。

 奏庵は浜松市の西部、S湖西岸にある。以前は雑木林だった所だ。確か中学生の頃だったと思うけど、友人と化石を探しにきた覚えがある。薄(すすき)が生い茂り鬱蒼としていた。それが土地の再開発によって、おしゃれな町へと変貌を遂げたのだ。変われば変わるもんだなあ。だからこの辺りに住居を持ちたいと希望する人は多い。空き地はまだ沢山あるように思うんだけど、なかなか売り地が出てこないようだ。それに土地が出たとしても、すぐに決まってしまう。住宅情報誌にも載らないので、不動産屋に直接依頼しているらしい。そういう土地なので次々と新しい住宅が建てられている。だからこれから家を建てようという人達が集まってくる。(ちなみに自治会の資料によると、平成11年には2952人だった人口が、平成17年には約2倍の5969人まで増加している。)リビングで寛いでいると、徐行している車をよく見かける。そのまま通り過ぎて行ってしまう車もあるけど、なかにはまた戻ってきて徐行を続けている。長いこと家の前で停車している車もある。どうも車の中から奏庵を撮影しているようだ。

 そんな写真を撮った人達がオープンハウスに来てくれた。奏庵のことをよく知っていた筈だ。そして写真を撮った理由を聞いてちょっと吃驚(びっくり)した。どうも奏庵を見て、『この家はどこかの設計事務所に頼んでいるに違いない。』と設計事務所のHPを検索して、ひとつひとつ探したようなのだ。だから村松事務所のHPで奏庵を見つけた時はとても感動したと言う。家に対する情熱がすごいなあ。そもそもIさんが村松事務所を知ったのだってホームページからだ。オープンハウスの時に少し話す機会があったので、もう一度詳しく尋ねてみた。Iさんは家の建て替えを考え始めた頃、浜松にあるS展示場に何度も足を運んでいた。最初は目立つ建物を見学していたようだけど、ある日M社のモデルハウスのなかに入ったら、「あらっ、素敵じゃない。」と感じたと言う。見所が沢山ある建物なのだから、いろいろと説明をしてもらいたかったようなんだけど、担当についた人はIさんの期待に応えてはくれなかった。そこでインターネットで検索して、所長のことを知り、連絡をしてきてくれた。奏庵を見学にいらしたIさんはソファーに座るとホッとした顔で、「やっとたどり着いたという感じがします。」と言った。その言葉はIさんの長い道のりを物語っていた。

 「もう退職しようかしら」なんて、Iさんはポツリと言った。そもそも趣楽の家は、退職したらアトリエで絵を描いたり彫刻を造ったりと、そんな生活を見据えて設計された家。それが叶ったのだからたぶん半分は本音じゃあないかな。だけど建築に対する興味はいまだ尽きないようだ。U市に建てられた「『OMの町角』を見学に行きたいんですよ。」と言っていた。「『OMの町角』も良いけれども、それよりもA市には所長が設計した家が沢山あるから、もし都合がつくようだったらそれらを見学したほうが良いですよ。A市の人達はとても温かく迎えてくれます。今度U市のお客さんを案内するんですよ。」と言ったらすぐにでも行きたそうにA市に想いを馳せていた。建築にはあまり興味がないようだったご主人は、完成した家にとても満足しているようだった。特に1階にあるパソコンルーム(書斎)はお気に入りのようだし、リビングにはオーディオ設備を置いて好きなクラシックやジャズを聴いてと話されていた。逆にMさん(娘さん)は現実になった家を前にして、「どうやって暮らしていったら良いんでしょう」とちょっと戸惑っているようだった。ご家族のために、ご家族の生活に合わせて所長が考え抜いた家だから、暮らしたいように暮らしてくれればいいんだけどね。

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